取材日:2021/03/11

大川先生のご著書『リベラルなイスラーム-自分らしくある宗教講義』の内容紹介を、大川先生と賴先生の対談形式でお届けします。異分野を専門とする先生方の議論の行方はいかに。

 

▽大川先生の研究

私の専門はイスラームの文化、宗教思想です。その中で特に聖典クルアーン(コーラン)の研究に焦点を当ててきました。クルアーンの研究には様々なアプローチがありますが、私はイスラーム教徒がクルアーンをどのように解釈しているかといった歴史や、現代的な解釈を研究しています。今までその研究についても本を書いてきました。

▽本の紹介

大川先生:この『リベラルなイスラーム 自分らしく生きる宗教講義』(慶應義塾大学出版会、2021年)を書いた背景には、今同時代に生きているムスリムたちがクルアーンをどのように解釈しているかを知りたいという思いがありました。皆さんはテロが起こると、クルアーンを掲げたテロリストの映像が報道されているのを見たことがあると思います。が、それだけ見ると、クルアーンという聖典は暴力や異教徒への敵対心を煽る書物のように見えてしまうと思います。しかしこの本は、それは本当なのかということを、イスラームとあまり接点のない日本の社会の人たちにもなげかけています。実際には日本人にも幅があって——狭いですが——いわゆるからと色々な人がいます。イスラーム教徒はその幅が広く、私たちが報道で見ているのは端の方にいる特殊な人たちなのです。もちろんそのような人たちがいること自体も大きな問題なのですが、部分的に切り取られたイスラーム教徒の姿だけを私たちが情報として得ているのも問題です。では、テレビで報道されていないイスラームの人たちはどのようにクルアーンを理解しようとしているのか。これが、私の最近の関心で、好戦的と言われがちな現代のムスリムが、聖典クルアーンをどのように解釈しているのかを知りたいと思いました。テロリズムに走るムスリムもいますし、この本で書いた異教徒との平和的共存を追求するムスリムもいます。このような人たちはある意味で社会の端と端にいて、それらの間にはグラデーションがあります。

https://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766427134/

日本も幅は狭いですが、過激な右翼的な思想を高らかに唱える人もいますし、リベラルな人もいます。どんな社会にもグラデーションがあり、特定の主張をしている一部の人だけで成り立っているわけではないいうことをクルアーンの解釈を通して説明できればと思い、この本に帰着しました。

 

あとがきにも書きましたが、出版社の方と話し,「リベラル」というコンセプトについて書くことになりました。私はリベラルという言葉はあまり使いませんが、賴先生はどうですか?

賴先生:政治学者ではないのであまり使うことは無いですね。個人として使う場合でも、「進歩」とか「革新」ですかね。

大川先生:日本語でリベラルというと、特別なニュアンスになりますよね。言い換えるとすれば、「進歩的」、英語では「progressive(プログレッシブ)」「modern(モダン)」でしょうか。リベラルという言葉を嫌う人もいます。国際学部のスタンスは基本的にリベラルで、先生もリベラルと思っていらっしゃらなくても、革新や進歩主義ということに対して肯定的に捉えられていると思います。

私もこの本を書くにあたって「リベラルって何だろう?」ということを改めて考え直しました。政治や文化の複雑な議論があり、私はその議論を研究しているわけではないので、自分と違うものもその違いを認めた上で、色々な異物がある社会を総体として受け入れて共存していく方向性を模索していくような動きを「リベラル」と捉え、この本を書きました。最先端の例としては、日本でもLGBTQの方の発言や、制度的にもパートナーとして認める動きもあり、日本がリベラルに進もうとしている証拠だと思います。これはただの一例ですが、こういったリベラルな動きに反対する人もいるので、日本の社会にも幅はあると思います。この本では「リベラル」というキーワードでイスラームを捉えたらどうなるのかということを書いています。

「イスラームは好戦的な宗教だ」という強いイメージが強いので、それに対して、「そんなことはなく、イスラームは平和な宗教です」と主張する研究者やイスラーム教徒も少なくありません。しかし、「イスラームは平和な宗教です」と言われても、納得しづらい事実が厳然としてあります。テロをしている人もいる、それと同時に、平和活動をしている人もいるという証拠を見せないと、イスラームという宗教の多様性がはっきりしないと思ったことも、この本を書いた背景にあります。

国際学部はリベラルという風に見られていて、嫌う人もいます。本にも書きましたが、「リベラル」には偽善者的なニュアンスがあると思います。「みんな仲良くしましょう」ということが言えるのは、割とお金があって、学歴もあって、生活に困らないような人だとされ、ブルジョワ・リベラリズムとも言われたりします。特に昨今、コロナ禍の影響で生活が厳しくなっている人も増えていて、そういう人から見ると、「仲よくしましょうよ」と言っている場合ではないかもしれません。なのでリベラルという言葉には欺瞞のにおいが少しあると思います。とは言え、グローバル化の中で共存を求める方向性は否定できない世の中になってきています。今はコロナ感染防止の為に制限されている移動も、再び緊密になるでしょうし、情報はますます肥大化しています。ですから、日本人の社会で今までなかった要素と付き合わなければいけない時代になっているのは明らかです。リベラルの方向性がいいか、そうではないじゃない方かいいかというと、リベラルの方向性をとった上で、どういう風にやっていくかということをみんなで考えるしかない状況になっていると思います。

異文化と交流しない社会だったらリベラルではなくてもいいかもしれないですが、そうではないですよね。ですから、戦争や対立だけではなく貧困も含めて、できるだけ暴力のない、安定した生活が確保され脅かされる要素がないような共存できる場をつくるためには、社会にリベラルという思考が必要になってくるのではないか、という

認識を持っています。

賴先生:イスラームの中にリベラルな動きを見出していくというのは、欧米や日本のイスラーム研究で出てきているのでしょうか?出版社から提案がくるということは、時宜にかなった、意義のある研究と見なされているという事だと思いますが

大川先生:オックスフォード大学出版会からも『リベラル・イスラーム』という本がでていますね。トランプ支持かそうじゃないかという時に、トランプ支持じゃなければリベラルというざっくりとしたニュアンスで考えると日本人にも受け入れられやすいかもしれません。日本のリベラルは意味合いがずれているようです。リベラルという言葉が日本に入ってきたのが1970年代あたりで、その後一部の知識人が言っているきれいごとに過ぎない、といったような使われ方も見られます。欧米で言ったら共感してもらえることが、日本だとたたかれることも多いので、そういう意味でも日本は保守的な国だと思います。

賴先生:日本学術会議の任命問題があって、各学会・学者から政府の強権的な手法に批判が集まりましたが、いまいち国民の側に学術の自由を求める動きが盛り上がっていないようなきもします。

大川先生:ざっくりとした話になりますが、西洋社会はキリスト教の影響が強く、そこから抜け出すために学問を打ち立ててきたので、それが自由であり、リベラルであるんですね。リベラルというときには宗教的なくくりから独立するというニュアンスがあって、日本とは状況が違います。

日本で学者や学問というと、生活が安定している人が好きなことやっているニュアンスで、戦っていないイメージです。「政府と癒着している」、「タコつぼの中で好きなことやっているなら、そこに金を出さずに理工系だけに金を出せばいいじゃないか」、「文学部はいらない」とか言われてしまいます。欧米キリスト教社会ではキリスト教の影響が強いので、そこと違う見方や価値観を提供しようと試みているのが学問で、それに価値があるはずだということがリベラルです。なのでリベラルは宗教と対峙する傾向が強いと思います。日本では言葉だけ輸入され、ただリベラルや学問があるだけなので、日本社会の中で学問の位置づけやリベラルな認識を定着させることは難しいのかもしれません。

 

▽クルアーンの現代的解釈が進まないままだったのはなぜか?

賴先生:キリスト教や仏教、ヒンドゥー教などいろいろな宗教がある中で、イスラームの経典クルアーンの現代的解釈が他の宗教に比べてあまり進んでいないのは何故でしょうか?

大川先生:キリスト教だと、古い教会指導者に対してカルヴァンたちが宗教改革を起こし、カトリックからプロテスタントが起こってきました。その動きが今500年ほど遅れてイスラーム世界で起こっているという研究者もいます。私も全く同意しているわけではないですが、ざっくりそう言えると思います。そういう風に比較できる程度の動きなので、抵抗も大きく、新しいクルアーン解釈を主張したことで、国に居られず亡命せざるをえなかったパキスタンやエジプトの学者も出てきています。イスラームの歴史をあとで振り返るとかなり大きな分岐点の時代になっていると思われます。

賴先生:人間が集団で生活をしている点はどこも一緒で、その中から宗教が生まれてくるのに、イスラームだけ改革が数百年遅れというのが不思議ですね。

大川先生そもそもイスラームという宗教は革新を否定する傾向を内包しています。イスラームを起こしたムハンマドが重要で、ムハンマドが生きていた時代が理想なので、そこになかったことを始めることに大変な抵抗感があり、「やっていいのかどうか?」と思ってしまいます。ムスリムが豚を食べないことやアルコールを飲まないことはよく知られていることですよね。

私のロンドン大学留学時代のことですが、友人とロンドンの中華街に食べに行こうという話になりました。豚とアルコール抜きのメニューであれば大丈夫だと思っていましたが、ムスリムの友人は「中華料理にはカエルがでてくるって聞いた。カエルを食べていいか私には分からないから、一緒に行くのはやめておく」と言われ、中華街に行くのは諦めました。そんなに心配しなくていいのではないかと私は思ったのですが、「カエルを出すような店にムスリムとして行っていいかわからない」とためらうのがこの宗教の特性です。

しかしそれを打ち破る人が最近になって出てきたのです。とはいっても、「自分たちの主張していることはクルアーンに書いてあって、今まで誰も気付かなかったけど、ムハンマドの時にもこういう風に言われてたんだ」という風にとらえるので、クルアーンやムハンマドを否定することは絶対にありません。私がクルアーン解釈を研究している理由もそこにあり、ムスリムはクルアーンから離れることは決してないわけです。

例えて言えば起点が無いと円が書けないコンパスのようなものでしょうか。日本の場合コンパスの針があるかないかと言われれば、ないような感じが強いですが、イスラーム教の場合はコンパスの針がクルアーンで、円が広がっていったり、狭くなったりします。この円が許容範囲であり、クルアーンの解釈となりますが、いずれにしてもルアーンがないと円が描けないのです。賴先生の研究するインドネシアの方々はその円を広く書いていらっしゃいますが、クルアーンを否定するとイスラーム教ではなくなってしまいます。

 

賴先生:7世紀にムハンマドはメッカで迫害を受け、その後メディナに移りました。当時のメッカは、腐敗した社会で、特権階級がいて、暴力も多かったわけです。そういった不正義に対抗するかたちでイスラームの預言を受けたはずなので、何かに対する変革がイスラームの中にあるのかと思いきや、それをずっと順守させることに意味があるのでしょうか?

大川先生:賴先生のおっしゃったことがまさしくリベラルなイスラーム解釈だと思います。ムハンマドは不正義や不平等に対して戦ったスピリットを持っていて、それがクルアーンの啓示です。現在の社会にそのスピリットを適用して考えると、ムスリムの社会でもLGBTQは否定されないという結論になるでしょう。ですが実際の歴史を見ると、クルアーンが成立してから近代に入るまで革新を否定するような保守性が強く継続されてきたわけです。なかには、クルアーンだけでは意識の改革が十分にできず、今やイスラーム以前の状況に逆戻りしたという見方をする人もいます。

賴先生:イスラーム諸国は独裁的な政治体制であることが多いですが、そのことは革新的な解釈が許されないことと関係がありますか?

大川先生そこは重要な現代の問題だと思います。独裁政権は保守的な宗教指導者と共存関係にあることが多いので、新しいクルアーン解釈は文化的な理由だけでなく政治的背景からも生まれにくかったのはこのためです。『リベラルなイスラーム』で取り上げている人たちも移民やマイノリティなどの立場の人が多いのですが、やはりマジョリティ、つまり体制側の人たちは、こういった革新的な解釈を提示する必要がないということなのです。

賴先生:繰り返しになりますが、同じ人間が生み出した宗教で、こんなにその後の展開が違うことは不思議に思います。

 

▽経典や学説、「常識」を批判していくことの重要さ

賴先生本の中に出てくるリベラルな新しいクルアーン解釈者たちは、「人権、平和、同性愛、女性の地位向上などをムハンマドは認めていたはず」だと主張しています。経典であっても、人間が創ったものであり、正しさが時代によって変わるなかで、それを時代に合わせて解釈する努力が重要だと考えます。常識批判が人間にとって重要だということを改めて思いました。

大川先生:確かに、クルアーンは非ムスリムにとっては人間ムハンマドの言葉の集成ですが、ムスリムには神の言葉そのものなので、時代によって解釈が変わるはずがないという思いうが強すぎるわけですよね。世の中の動きが速いので常識もすぐに変わりますし、まさしく「解釈する努力が重要」だと思います。日本でも20~30年前は女性がこれだけ活躍することは想像できませんでしたよね?東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を森喜朗氏が辞めるとは…。まだあんなこと言っている人がいるのかという驚きはさておき。とは言え日本は夫婦別姓はダメ、家族が壊れる、といった主張が未だに存在します。

そういった人たちがいわゆる保守派です。ですがここ数十年で状況も変わってきていますし、私より上の世代でキャリアを持っている女性の方々からは「昔はもっと大変だった」「今はまだ恵まれている」と言われます。保守的な日本社会でさえすごい速さで変わってきているわけですね。ですから、今おっしゃったように、相対化して、批判的に、物事を見る癖をつけることは重要で、学問で得られる大切なことの一つだと思います。

賴先生その大事さはこの仕事をしているからよくわかるのですが、若い時はコンパスの話のように、「この人が言っていることは正しい」ということを基準にして、様々な言説がどれだけ正しいか、それに対して自分の立ち位置が適切なものか、という判断がようやくできる気がします。何かを疑う前に「この人のいうことは正しい、好きだ」というのが無いと、物事の判断基準が持てず、疲れてしまうと思います。クリティカルシンキング(批判的思考)は正しいけれど、その前に信じていることがないと、学生が混乱するんじゃないかと思っています。

大川先生:キリスト教社会では信仰があって、そこからどれだけ離れていくか、イスラーム教の場合はクルアーンとの距離感ということがあり得ますが、日本の場合それがないので難しいと思います。批判する必要がある対象があまりないので、ある意味、平和な社会なんですよね。あくまで思考のための例ですが、天皇による親政が行われることになった場合、そこからどう距離をとるか、古事記に書いてあることは本当なのか、ということを考えざるを得なくなると思います。

イスラーム社会はそういう社会で、古事記や日本書紀に書いてあることが本当かどうか、それをどう解釈するか悩んでる社会です。おっしゃったように、宗教じゃなくても信じるものというか、まず基準をつくることが大事だと思います。ゼミの先生や思想家でもいいですし、本を読んだ入りすることで生まれてくるのではないでしょうか。「現代思想」は今はもう、はやらないかもしれませんが、『鬼滅の刃』などの漫画もあり得るかもしれません(笑)。

日本はそこが弱く、問題であり、考える基準がないために生まれるものが少なくなっています。イスラーム社会ではトラブルも含めて生まれるものはいっぱいありますね。中東ムスリム社会と比べると、日本や東南アジアはずいぶん穏やかな社会に見えます。対立の種がないのか、人柄なのかわからないですが。インドネシアも対立しようと思えばできますよね?

賴先生融和を呼びかけているから今がありますが、2億人以上の人口がいて、見かけだけでも民主的なものを保ちつつ、ふたを開けると多様性があり、島国ですし、アニミズムもありますし、大したものだなと思います。

大川先生:テロもほとんどないですし、民族性や気候風土の影響があるのかなと思います。

賴先生インドネシアに行くとそこらじゅうでランブータン(ライチに似た大型の果実)やマンゴーがなっていて、雨が降っておコメも取れるので、流通の問題によるものを除けば、極度の飢餓や貧困は起きづらいかもしれません。

大川先生:それと比べると、中東の気候風土は収奪しないと獲得できないというDNAです。例えば私が一年間サバティカルで調査をしていたカンボジアだと、メコン川に恵まれて勝手に二期作で米ができるので、人々は基本的にのんびりしてますね。

後半へ続く

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◯大川玲子(おおかわ れいこ)国際学科教授

イスラーム学を専門とし、クルアーン(コーラン)の研究を行なっている。東京大学文学部イスラム学科を卒業後、東京大学大学院人文科学研究科、イスラム学専門分野修士課程を修了。その後、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院にて修士課程修了。東京大学にて文学博士を取得。日本学術振興会研究員としての活動を経て明治学院大学国際学部に着任。