取材日: 2024年06月24日
取材者: 伊藤 朱夏
▽先生の研究分野は何ですか?
研究分野は、大分野で言うと文化人類学で、小分野で言うと象徴論、そしてポップカルチャー・スタディーズです。象徴論と言うのは、人間が創作し、操作するさまざまな表現、造形、あるいは記号といったものの文化的な意味や社会的な役割を探究する分野です。そういったものをある文化社会的ないし歴史的な文脈で深堀りしてみたり、異なる地域や時代の間で比較してみたりしながら、シンボリックアニマルとしてうごめく人間の姿を捉えていきます。
▽象徴というのはつまり、目に見えるモノやコトという事ですか?
基本的にはそうです。でも、例えば「妖怪」のような想像(空想)上の存在だってありえます。「妖怪」は、人と人がコミュニケーションをとる時にそれが何かわかるように、目に見えるフォーム・形を取っていますよね。頭の中で描くということと、実際に形があるかどうかっていうのは必ずしも一致するわけではありませんし、必ずしも一致する必要もないのです。でも鬼・天狗が登場する日本の昔ばなしや水木しげるさんの『ゲ・ゲ・ゲ~』アニメ、『隣の花子さん』のような都市伝説、『トトロ』や『千と千尋』のような宮崎駿のジャパニメーション、あるいは『リング』のようなホラー映画が私たちの目を引いて止まないのは、恣意的にクリエイトされたこれらの妖怪たちも私たちが構成する生活世界に関わり、心象効果を発揮しながらそのファンタスティックな役割を果たしていることを示しています。
そもそも表現行動やコミュニケーションに何らかの意味や意義が見出せるのは、それが象徴や記号を介した価値の共有や意思疎通の手段であるからであって、必ずしも現実の描写には限られません:そこには往々にして、というよりむしろより頻繁に、イメージやステレオタイプといった妄想の産物が介入してくるわけで、そんな象徴を介して私たち人間が行う「より広範なコミュニケーション」のあり方を吟味考察するのが楽しいです。
今を生きるみなさんに馴染みのあるポップカルチャーの分野にこうした象徴論のロジックをこじつけるなら、例えば今千年紀に入って日本で流行ってきたKPOPにハマるファンの熱狂ぶりは、「クール」を体現するファンタスティックな「アイドル」がライヴステージで舞う姿や、メディアを介して愛でることができるこれら若手タレントたちのイメージに痺れているわけで、いわば現代版の偶像崇拝であり、文化産業が仕掛ける一種の儀式的な時空をそこに見出すことができます。変な例えになるかもしれませんが、「アイドルタレント」たちを「現代版の妖怪」とみなすことだってできるのです:あの派手派手しく格好をつける彼ら・彼女らの現実離れた姿や表現行動が、妖怪たちと同様の「超常現象」を演出し、愛でる者たちに驚きや感動を与え、現実世界から暫し離脱して心癒される場を提供しているといえましょう。
▽現在の先生のご関心や研究内容を教えてください
ヒトが何モノに心惹かれたり取り憑かれたりしながら、そうした「象徴的他者」を崇める行為を「物神性/idolatry」といいますが、上述のアイドル研究よろしく、そういった行動の探究には以前から取り組んできましたし、今も継続的に探究しています。最近では特に、偶像を介したシンボリックなコミュニケーションに関する洞察を通時的に推理していくことに思考を凝らしています。例えば、近年トルコのギョベクリ・テペという遺跡で発見された旧石器時代の「神殿」からは、動物の姿が描写された身体を持つ無頭の巨人像が並列して砂漠の最中より忽然と出土しており、農業が幕開ける以前に多大な労働力を導入した巨大建築がこの地域で行われていたことが明らかになりました。「農業の発展に支えられた文明ありきの神殿構築」というこれまでの通説が、この発見によって覆されたわけですが、私に言わせれば「物神性に基づくシンボリックコミュニケーションありきの文明構築」なのです。
私は、「物神性」というのは、我々現生人類に特有なものでは決してなく、進化の過程で人類が身に着けたスキルのようなものだと思っています。絶滅したホモ・サピエンスの古種であるネアンデルタール人には、少なくともクロマニヨン系の現生人類と接触した後にファッションセンス―つまり象徴的な自己表現―が一段と発展した痕跡も見つかっていますし、訓練すればゴリラやチンパンジーだって絵を描く能力を持ち合わせていることが知られています。シンボリックアニマルたる私たちヒトが、類人猿から進化する過程でいったいどのように象徴的な思考能力を具え、言語のような「高度な記号体系」を介したコミュニケーションを開発してきたのかについて、今後も有志の学生諸君と共に探っていきたいです。そんな学問的な営みに興味があります。
日本にも世界的に知られるシンボリックアーツ(そしておそらくこれに関連したパフォーマンス)の開化期が縄文時代を通じてありましたが、この時代を象徴する物神といえば土偶ですよね。おそらくユーラシアで流行った骨や象牙のフィギュア―「旧石器時代のヴィーナス像」―の製作技法とこれを造形するココロが、日本にも伝わってきたのだと思います。そしてこの国に豊富な素材である土と、その質の良し悪しを見分ける能力に長けた匠たちによって、和製のヒトガタを大量に製作する「先史産業」が成り立ったのだと思います。こんな感じで思いを馳せながら、上代に土偶が木製のヒトガタに取って代わり、後に奇術の対象となる藁人形へ、そしてフェチの対象となる現代のフィギュアへとつながる経緯を追ったりしています。面白いのは、縄文土偶も旧石器時代のユーラシアン・ヴィーナスたちも、現代のフィギュアたちも、女性性の象徴度が高いという点です。「命を生む性」への脅威の念が、そうした偶像によって象徴されているのではないかと考えています。

日本のタレント業界でアイドルパフォーマンスの調査中、公開インタビューに臨む
(1996年4月、右端が青柳)
▽先生の研究の目標はありますか?
プロジェクトによって具体的な目標は異なりますが、中長期的な目標としては、命の成り立ちや、生きるとはどういうことかを哲学的に考えたいと思っています。古来、偶像=人格象徴はライフサイクルを段取るための通過儀礼という文脈において「導き役」としての役割を担ってきたと考えられ、この説に従えば、私たち現代の人間も、そういった偶像―例えばKPOPアイドル、あるいはクマモンようなキャラクター―をかの妖怪やお地蔵さんのような「道標」に何らかの形で人生の「生成流転」にエンターテインニングな華を添えて楽しんでいるのではないかなどと仮定しています。心の問題を抱える人がアイドル的な象徴に縋ったり、逆に偶像を奪われたり持ちえなかったりした人が心を病む事例も複数拝見していますので、社会心理学的な観点からアイドルのヒーリング効果を通して人間学的な考察の体系化を目指してみたりするのも面白いと思っています。短縮的な言い方をするなら、「象徴を介した表現と、表現者たちの持つ認識と、彼ら・彼女らが置かれた生活環境の関係性」をどこまでも捉えていくのが私の探究目標ということができるかもしれません。この哲学的根拠はフランシス・ベーコンの「イドラ論」にあるのですが、これについて説明していると話が長くなるので、ここでは控えます。
▽先生は、どんな学部生でしたか?
私は実は「帰国子」で、幼少期に米のテキサスで悠々自適に過ごした後、中高時に「来日」させられたのです。公立の学校に通わされていた中学時には「トップダウンで規制的で、陰湿感に満ちた」日本の学校体制に全く馴染めない自分の姿が露わになり、この時期からグレまくっていましたが、何とか高校を卒業して2年間の浪人生活を送った後「帰米留学」してワシントン州立大学に学びました。
大学でははじめ政治学を専攻してみましたが、多分野を跨ぐ豊富な選択肢の中から好きな科目を選んで学んでいく中で人類学に興味を抱くようになり、それ以来この分野で突っ走ってきました。この間、特にマーク・フライシャーという先生との出会いは思い出深く、毎度活き活きと展開する彼の講義にすっかり魅了されて「自分も将来あんな教師になりたい!」と強く思うようになりました。監獄を一種の文化圏とみなして研究していたフライシャー先生が有志のクラスメイツと共に連れ出して下さったフィールドスタディー(私にとって初体験となった民族誌の現地調査)先の監獄で恐る恐る行った重罪囚への聴き取り調査体験は、「囚人ははじめからそうだったわけではなく、育った家庭環境やライフスタイルに影響されながら編み出されていく!」という発見をリアルにもたらし、今の自分の中に脈打つ構築主義的なものの見方を育んでくれました。
一方、サスクワッチ(ビッグフット=北米版の雪男)の研究でも有名だった生物人類学者のグローヴァー・クランツ先生から授かった「人種」に関する考えか方は、あらゆる偏見や差別を超えた科学的な実証に基づく解釈の重要性をこの身に叩き込んでくれました。「現生人類がアフリカを起源とした一種類のみであること、つまり全人類は一家でみな姉妹兄弟であることがDNA鑑定などから立証される科学的な解釈で、環境に適応しながら世界に広がって様々な民族に分化した。人種そのものに優劣はなく人類が人類である限りみな同じ人種的特徴を備えている。人種を差別化する試みは政治的なものに他ならず、そこに何らの科学的根拠もない!」という、クランツ先生から授かった主張(今風に言えば「イヴ仮設に基づく理解」)は、「日本人は単一民族である」などとぬかす無教養な主張を鵜呑みにする学徒たちを諭す題材として今日活用しています。ちなみに、そのクランツ先生の骨格標本が、研究室に伺えば何時も傍に侍っていた愛犬クライドのそれと共に現在スミソニアン博物館に保管されているので、自分も他界してしまう前に「拝みにいかねば!」と思っています。
無論、ユニークな先生方は他にも沢山おり、そんな先生方がオファーするコースワークに只管真摯に取り組んでいたのが学部生である自分の姿だったと思います。設備が整った広大なキャンパスで多様な出所やバックグラウンドを持つ好奇心旺盛な学生や先生たちと接し、知己を得たり社交を楽しんだり、クラスを共にしたりしながら学べたのは実に感動的でしたし、自分自身の選択と努力が相応の結果をもたらすクレジット制度下の学びはチャレンジングながらも充実感に満ちていました。横から見れば「まじめな学生」に映ったかもしれませんが、自分自身は時に尖がり時に焦りながら、将来人類学者になりたい一心で兎にも角にも突っ走っていました。ダイナミックでインターアクティブなコースワークは、気軽に質疑や相談をしに通えたオフィスアワーズと合わせて、とても充実した学びと社交の場を授けてくれたと思います。
高校の時分にはヤンキーもしていた自分が日本を脱出して米の大学に進むことで、暴走の対象を「極道」から「学道」に差し替え、学びという冒険にハマりつつ、今の自分を構成する体験を積み、知識を広げ、教養を深め、自信を身に着けることが叶ったと感謝しています。総じて私は学部生の頃には「学道暴走族」の一分子でしたね。今もそうだと思いますが。
▽学部生へメッセージをお願いします。
世界は広く、学びの対象は実に尽きることがありません!学ぶのに早いも遅いもありませんが、人生は一度きりです!想像力と創作力を発揮しながら限られた時空をその手足や頭脳で切り開き、大いに探索・冒険しながら不可思議な世界に遊び、多様な他者たちと交わり、その生き方や生き様に学び、命の輝きや躍動に感動し、実存すべく大いに思考し、藻掻き、アカデミックなスキルを身に着けながら悔いなき人生を開拓してください!
◯青柳 寛(あおやぎ ひろし)国際学科教授
比較文化論/人類学
ワシントン州立大学人類学部卒業。アリゾナ大学人類学部大学院修士課程修了・人類学修士。ブリティッシュ・コロンビア大学人類学及社会学部大学院博士課程修了・人類学Ph.D. ハーヴァード大学ライシャワー日本研究所研究員、テキサス大学オースティン校特任講師、国士舘大学21世紀アジア学部助教授・教授を経て2022年より明治学院大学国際学部国際学科に在職。
著書に『Islands of Eight Million Smiles: Idol Performance and Symbolic Production in Contemporary Japan』、編著(共編)に『Idology in Transcultural Perspective』、学術論文に「Neo-ethnic self-styling among young Indigenous people of Brazil」(『Vibrant: Virtual Brazilian Anthropology』17号所収、共著)など。
この記事の読者のみなさんには『国際学研究』62号に所収の「『比較文化論』における文化の捉え方に関する一考察」の一読をおススメする。