▽研究を志すようになったきっかけは何ですか?
様々な理由があるのですが、大きなきっかけは就職活動です。明学の皆さんは、とりあえず就職する道を選ぶ方が多いと思いですが、僕も同じでした。大学生の頃は、演劇や映画に没頭していたので、将来はお茶の間にドラマなどを届ける、ディレクターやプロデューサーになりたいなと思っていました。まずはテレビ局、次に映画業界を志望し、そのような業界が無理だったら、出版社や代理店も良いなと考えていて、よくありがちなメディアの一番人気な業界を狙うような学生でした。
そのような世界を目指せる所にいたのですが、この時初めて自分が色弱だという事と向かい合い、僕の就職活動は大きく変わりました。「色盲」も「色弱」も英語では「カラーブラインド」と言いますが、本当のカラーブラインドは色が見えません。色弱の場合は、普通の色彩感覚と少し違い、ある特定の色が薄くなると区別がつきにくくなりますが、代わりに青などは非常に敏感になります。僕は、それまでの人生で目で苦労した事はないどころか、むしろ美術の成績は良く、一時期は美大に行こうかなと思っていたくらいでした。ですので、どちらが優秀で、どちらか劣っている、という事ではないのです。多数派の方が優秀と考えられるので、色弱の人は「劣っている」と考えられがちです。しかし、実際に色弱の人は、男性は20人に1人、女性は600人に1人いるので、特に男性は普通にある症例で、今は病気扱いではなく、血液型と同じように「色感の多様性」と言われています。ですが、パイロットや自衛官、警察官などに関しては、未だに受験できないと言うか、受験資格はあるけど落とされてしまうようです。
僕らの頃は、もっとあからさまで、大学の就職センターで受験案内を見たら、志望していた業界の全ての企業の1ページ目に、「色感異常は受験不可」と書いてありました。ですので、僕は全てのクリエイティブ系の企業に受験する事ができませんでした。やはり、大学4年という若さだったのでとても悩みました。商社やメーカーなどの企業には受験できたのですが、人生の目標はそんなにすぐに変える事はできませんでした。ですので、企業には入社しない代わり、「自分は物を作っていく人間だ」という事を信じ、一人で生きなければいけないと決断しました。
卒業後は、アルバイトで数ヶ月単位を生きていくような生活を送っていました。まずはフリーランスの放送作家として、何年か裏方として働いて、台本を色んな所に持ち込んだりしました。あの時もし電通などに入社していたら、今頃オリンピックの甘い汁を吸うような、汚い人間になっていたかもしれません(笑)しかし実際は、すごく惨めな思いもしました。例えば、同じ大学の同級生の知り合いと、テレビ局の廊下ですれ違う事がありました。僕は出入り業者でしたし、若いフリーの放送作家なんて、放送の世界のヒエラルキーでは一番下でした。そんな僕に、学生の頃は「申し訳ないけど才能ないよなぁ。」と思っていた同級生が、正社員として偉そうな事を言ってきて(笑)完全に立場が逆転してしまいました。このような、しんどい思いを多く経験しました。
20代の頃、目の事でいきなりマイノリティになり、揺さぶりをかけられ、社会が扉を閉ざしてしまった時は、本当に苦しかったです。ですが、これらの経験により「一人で生きていくんだ。」と覚悟を決めた事が、その後の報道特派員やバンドデビュー、ニューヨークに在住して向こうのライブハウスで演奏した事、世界に向けて本を書きたいと思うようになった事、人生相談、「希望学」、「復活学」など、全ての事に繋がる始まりになったと思います。したがって、安定した生活なんて一度もなく、貯蓄も皆に比べてありませんが、自分は「自分の人生」を歩んできたなと思っています。もしあの時に間違って、プロデューサーやディレクターなどになっていたら、肩で風切って歩くような嫌なオヤジになっていたかもしれませんね(笑)
▽今後の研究目標は何ですか?
大学で学生を相手に授業をする事が今は人生の基本となります。もうひとつ、社会の一員として「希望」を、子どもに対しても、おじいちゃんおばあちゃんに対しても、どのように伝えていくべきかを考えています。僕はこの年齢になって、ようやく自分の肩書きではなく、本質的な事に気が付いたので、それを活かして、例えば子ども達に向けた参考書の類に「希望」を注入するとどうなるのかという事を実践していきたいと思っています。
今の学生が生まれる頃、テレビ朝日で『金髪先生』(1996~1998)という、深夜にロックアーティストを紹介する番組を作りました。この番組を作ったきっかけは、テレビ朝日の担当者から「数ヶ月後にオンエアが迫っている、夜2時40分から30分枠の企画書が面白くなくて、どうしても決まらないから何か考えてくれないか?」という依頼を受けたからです。僕は昔から、NHKの語学番組は「面白くないな、なぜ面白くしないんだろう」と、ずっと思っていました。当時の語学番組では、先生と生徒がいる教室のようなセットで、つまらない例文を黒板に書き連ねていました。そんな中、放送枠の話が来たので、おそらく日本で初めて語学番組のバラエティー化に挑戦しました。当時バンドデビューしていたので、ロックバンドやアーティストの英語の歌詞を解説する番組を作り、生徒役にモヒカンなどの悪そうなパンクバンドの人ばかり出演させたら、その番組は大当たりしました。そして、その番組の影響で、日本の語学番組が一斉に変わってしまいました。
この時もそうですし、『あん』(ポプラ社, 2013)を書いた事によって、ハンセン病問題に対する雰囲気が変わった時など、今までに僕は何度かそれまでの世間の風潮を変えた事があります。ですので、今は本質としての「希望」を基にして、例えば子ども向けの参考書や問題集など、または、おじいちゃんやおばあちゃんが読むような本などにも、それを盛りこむ事でどのような変化が起きるのか興味を持っています。そのために、今僕ができる事を精一杯やってみようかなと思っています。